Memory

写真;稲越功一   稲越さんと初めて会ったのは、「贋作・桜の森の満開の下で」初演の時でした。以来、天に召される2009年2月まで、お忙しい中、いつも私の舞台に駆けつけてくださいました。トレードマークの真っ白な運動靴を履き、珍しい花がたくさん入った綺麗な花束を持って。96年に上演した「弥々」のパンフレットに、こんな言葉を贈ってくださっていました。「毬谷友子の芸には、天性のものを感じる時がある。これからの彼女にほしいものは芸以外でのより多くの深みではなかろうか。」稲越さん、この言葉の重みに、今頃 気がついている私です。少しだけ、シワと傷が増えました。でも、まだまだだと思います。この写真は、94年に一緒に作った写真集の中から選ばせていただきました。たくさんの感謝を込めて。合掌





写真;荒木経惟   荒木さんと出会ったのは、映画「夢二」の撮影現場、金沢にある大きな屋敷でした。スチール写真を撮りながら、しょっちゅう「これは自分用!」と、ポケットから紙カメラを出しては、カシャカシャ写真を撮っていました。撮らずにはいられない衝動なのか、その瞬間の空気を、永久に自分だけで保存しておきたいのか、写真を撮っている荒木さんは無心な子供のようでした。数年前、個展の会場で久しぶりにお会いした荒木さんは、般若心経と静物を組み合わせた写真をたくさん発表しておられました。紙カメラではなかったけれど、「ちょっと、そこ座って!」と、薄暗がりのベランダで、また私の写真を撮り出した姿は、やっぱり無心な子供のままでした。





写真;篠山紀信   「野田版・真夏の夜の夢」の舞台をご覧になった篠山さんが私を雑誌のグラビア写真に呼んでくださったのは、その翌日でした。「勢いのあるものが撮りたいんだ!」と言う言葉が忘れられません。これは91年、映画「外科室」のロケ現場で、スチール写真撮影の合間に、篠山さんがA4サイズの大きなポラロイドカメラで撮ってくださった世界に1枚きりの写真です。そして この着物は、監督をなさった坂東玉三郎さんが作って下さいました。本当に美しい薄萌葱色の着物で、撮影が終わってから「あの着物を買い取りたい」と申し出ると、玉三郎さんは、にっこり笑って「うーん...あの着物は...友子ちゃんのお給料では多分買えないと思うの...」とおっしゃいました。身につけている簪や小物は、博物館から持って来たという本物で、撮影中は「これ、落としたらどうしよう...」と緊張したものです。玉三郎さんは「目に見えないもの」に対する畏敬の念、確信をとても持っていらっしゃる方で、ある時、「ドレスの下のペチコートまで、なぜ絹にするかって・・誰にも見えないけれど、動いた時に私が聞く衣擦れの音、そこに漂う空気で全てが変わり、それは必ず観客にも伝わっている」と教えてくださいました。





映画「宮城野」で、樹木希林さんとご一緒させていただきました。『希林さんは、気難しくて怖いから』….はじめに聞かされていた言葉とは裏腹に、駅前の和菓子屋で買った「6個入りの和菓子」を持って、衣装合わせの現場にいらした希林さんは「早いもの勝ちー」などと皆に勧めてくれて、世間の噂というのは全くアテにならないものだと、つくづく思いました。大泉のスタジオの向かいにある「行きつけ」の中華屋でご馳走をしてくださったり、その隣の「行きつけ」の八百屋で差し入れの箱みかんを買って「あんた!持ちなさい!」なんて、スタジオまで二人で運んだこと。...希林さんは、古い着物を洋服にリメイクするのがお好きだったようで、待ち時間には、衣装部屋で楽しそうに縫っておられました。そして撮影最終日,,,「メリンスは絶対にズレないから!」って、希林さんがご自分の着物をリメイクした腰紐を私にプレゼントしてくださったこと。その後も、時々、電話がかかって来て「あんた。事務所はどうするの?」なんて、とても気にかけてくださり...叱られたこともありました。最後まで心配をかけたままだったことが本当に心残りです。でも希林さんと出会えた時間は、私の宝です。忘れません。本当にありがとうございました。





(続く